THINGS I LOVE vol.18
2025.12.04feature


ルシアン・ペラフィネを知ったのは’90年代中頃だった。リヴォリ通りを挟んでチュイルリー公園の反対側にあったビンテージなアパルトマンにオフィスを構えていて、パリ在住の友だちがそこに連れて行ってくれた。友だちの話では、業界人の間で今、ルシアン・ペラフィネのセーターが流行っている、とのことだった。お洒落なファッションフォトグラファーやアートディレクター、中にはファッションデザイナーまでもがルシアン・ペラフィネのカシミアセーターの虜になっている、という話だった。
僕は、そんなセーターを見に行けるなんて、なんとラッキーなことだと感謝しながら、ドキドキしてそのアパルトマンの門をくぐった。確かオテル・ムーリスの並びあたりだったと思う。重々しいそのアパルトマンは、おそらく元は中世の貴族の住まい。現在の規格にはまったくあてはまらない窓枠やドア、そして石壁、木材、レリーフ等々、そのすべてが希少で格好良かった。ルシアン・ペラフィネの部屋へ入ると、畳まれたニットが所狭しと置かれていた。ルシアンは助手の女の子と在庫数を調べる作業をしていた。倉庫の棚卸しのような作業で、彼はややイラついていた。僕は不機嫌そうなルシアンを見ながら、「不味いタイミングで来ちゃったな」と思っていたが、一緒に行った友人はそんなことは気にせず、僕を紹介してくれた。ルシアンは友人にはしっかりとハグをかわして濃厚な挨拶をしたが、僕には興味なさそうにペラッとタッチのような握手をして離れた。まあ、ほぼスルーみたいな感じ。僕は恐縮しながらセーターを見せてもらった。柔らかい感触と温もりを備えるそのセーターは、さすが「カシミアニット界のロールスロイス」と言われるだけのものであった。そこにプリントTシャツの如きモチーフがインターシャで描かれていた。僕は画期的なセーターだと思い、試着を始めた。面白いモチーフが何十種類もあったので、たくさん試したのは山々だったが、挨拶時のルシアンの対応を考えると積極的にはなれない。試着してサイズ感の確認だけをすると、2枚のニットを「買いたいです」と助手に告げた。そして注文書の控えを頂いてその場を後にした。
それから、5年ほどが過ぎ、TV『ファッション通信』でルシアン・ペラフィネの店を取材することになった。新しい店が左岸のオテル・モンタランベール近くに出来ていた。サンジェルマンデプレから歩いて10分くらいのところである。僕は初対面のときの印象を引きずっていたので、ルシアンに挨拶をするのをやや躊躇していたが、その時ルシアンの助手をしていたのは日本人男子だった。彼は底抜けに明るいキャラクターで、人見知りがちなルシアンの性格を見事にフォローしていた。彼のおかげで僕も過去の嫌な思い出に捕らわれることなく、素直にルシアンとコンタクトすることができた。
パリで『ファッション通信』の取材をしたり、東京にできた店を〈POPEYE〉で紹介したりしているうちに、ルシアンとどんどん仲良しになっていった。あるときパリで彼にランチに誘われ、二人でビストロに行ったことがある。なんとルシアンは「マイ箸」と言って自分の箸を取り出した。白身魚のムニエルを注文し、テーブルにセットされていたナイフ&フォークは使わずに「マイ箸」で食べ始めた。これには驚いた。和食好きだとは聞いていたが、まさか「マイ箸」を持ち歩くとは・・・。和食愛好家のフランス人は僕の知り合いにも多いが、「マイ箸」を持ち歩く人はレアだ。その後も、パリでも東京でも何度か一緒に食事に行ったが、彼は常に和食屋を好んだ。
そうこうしているうちにまた数年が経ち、ある日、ルシアンからイメージブックの制作を依頼された。彼の要望は「君に写真を撮って欲しい」ということ。フィルムでしか撮れないと伝えたが、「デジタルカメラを使って欲しい」と言われ、いい機会だしトライしてみようと思った。当時は『LEICA』のデジタルはまだ発売されていなかったが、『EPSON』がLEICA Mシリーズのレンズが使えるデジタルカメラを発売した時だったので、速攻で入手した。撮影日の前日に買ったカメラで本番に挑むという無謀な展開。モデルのキャスティングもスタイリングも、全て自分でやっていたので、撮影はなんとか問題なく進んだ。が、一日目に東京で撮ったデータをパリにいるルシアンに送ると、「全部ダメ」と帰ってきた。彼の要求は「もっと東京らしい場所で撮って欲しい」。モダンで綺麗な場所ではなく、新宿などのカオスな状況や江戸のムードを感じさせる風景を望んでいたのである。そのため、二日目は撮影場所をガラリと変えた。カメラは使い慣れていないし、場所もゲリラ的な展開となり、僕はハラハラドキドキしながら頑張った。こういったギリギリの状況になると案外いい興奮が起きる。二日目に撮ったデータをルシアンに送ると、『OK♥』の返事が来た。この時は、鼻血が出そうなくらい疲れていたが、ほっと胸をなで下ろした。
イメージブック作りは翌シーズンも続き、今度はパリでの撮影となった。ルシアンは「スタイリングとモデルキャステイングは自分がやるから、君は写真に専念しなさい」と言った。真横にルシアンがいる状態でシャッターを押すのは緊張したが、前回、東京で作った時よりもずっと楽だった。彼はブランドを始める前はスタイリストだったらしい。撮影の流れには慣れていて、なにもかもがスムーズだった。撮影は2日間だったのだが、2日目の午後あたりに「カバー用写真のイメージは決まっている。ちょっと付いて来て」と言われ、僕はカメラを肩からかけてルシアンの後を付いていった。路地裏をどんどん歩くルシアンに、その辺りにいた人たちが続々と挨拶をする。撮影場所はルシアンの住まい周辺だった。そして、露店の前で足を止めた。そこには、安い古着のTシャツがシャビーなムードでハンガーにぶら下げられていた。彼は突然その中からシャツの掛かったハンガーを持ってきて、シャツを剥がして自分が持ってきたルシアン・ペラフィネのセーターを掛けた。そういった時の手早さはさすが元スタイリストである。店番をしていた少年はルシアンに駆け寄って大声でクレームを言ってきた。すかさずルシアンは店の奥にいた店主と大声で話し、紙幣をチラつかせて交渉。店主はその紙幣を見てOKを出した。その瞬間、目の前にいた少年がルシアンの手から紙幣をとろうとすると、ルシアンはそれをかわして少年には渡さず、奥の店主に渡し、少年にはあっかんべーのような顔をした。なんとも愉快なシーンだった。僕は素早くシャッターを押して現場を後にした。イメージブックの上がりは、前回の東京編よりもルシアン・ペラフィネらしさが出た、良い物に仕上がった。ニューヨークから来ていたアート・ディレクターは、その場でどんどんページのデザインを作っていく。その流れもいいリズムだった。撮影は両日ともに晴天。背景に写るパリの街角も美しかった。素敵な思い出である。『JACOB & CO』とコラボして作った彼自慢の腕時計は、このイメージブックで大々的に取り上げた。そしたら翌年、香取慎吾さんが、ニューヨークのルシアンの店でその腕時計を購入。東京の撮影現場で、「スケさん、これ買ったよ」と見せてくれた。そして「あのイメージブック見たよ。いいじゃん。」と言ってくれた。撮影できてよかった、と思ったのである。




■祐真朋樹(@stsukezane)
1965年京都市生まれ。マガジンハウス『POPEYE』編集部でエディターとしてのキャリアをスタート。現在は雑誌のファッションページの企画・スタイリングの他、アーティストやミュージシャンの広告衣装のスタイリングを手がけている。コロナ以前は、35年以上、パリとミラノのメンズコレクションを取材していた。