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THINGS I LOVE vol.12

2025.09.11feature

 

 

 エディ・スリマンのディオール・オムは、まず東京で空前の大ヒットとなった。今はないバーニーズ新宿店、ユナイテッドアローズ原宿本店に続き、表参道にも店がオープン。今はなき伝説の10 corso como青山店にもスペースができ、時代をリードするメンズブランドとして一気にトップブランドの仲間入りを果たした。
 数ヶ月たち、再びエディと原宿のカフェ・デプレで合った。この時は午後2時頃で、外光が程よく入ってくる雰囲気だった。エディは、初めて同じ場所で会った前回とは違って、表情は和やか。すっかり東京慣れしている様子だった。ここでも雑誌MRハイファッションに掲載するためにインタビューをした。もちろん、エディが作ってくれたブラックスーツを着て行ったのだが、なんと15分ほど遅刻してしまった。

 その時の彼の発言で印象的だったのは、「東京はTシャツを着ている人が多すぎる」ということ。彼は当時、ディオール・オムで白いブラウスを打ち出していたので、日本のマーケットとのギャップに対して意見があるようだった。「もっとブラウスを着るべきだ! ネクタイを楽しむべきだ! ドレスアップするべきだ!」というような内容だったと記憶しているのだが、その次のシーズンから、ディオール・オムのコレクションではTシャツとジーンズが圧倒的に増えた。間違いなく、渋谷、原宿、表参道辺りの影響があったと思う。その後3シーズンほど、僕はディオール・オムのパリコレに行くと「ファッション通信」の取材で必ずバックステージに入れてもらい、エディのインタビューを繰り返した。毎回、明確なテーマとその背景にあるコンセプトやストーリーを話してくれるエディは、内容としては自信満々なのに、どこか恥じらいながら話すのが印象的だった。

 通常、バックステージに外部の者が入れるのはショーの後なのだが、ディオール・オムに関しては、ショーの前に特別に入れてもらえた。ニュールックを綺麗に整った状態で見せたいという、エディの心配りだった。ありがたかった。
 そんな感じだったので、僕はメンズコレクションのパリコレの時期は忙しかった。なので、アベニューモンテーニュにあるクリスチャン・ディオールの店でゆっくりディオール・オムの新しいコレクションを買いまくるのは、ウィメンズコレクションでパリに訪れた時であった。 
 その後、ミラノのスピガ通りにもディオール・オムができた。僕はミラノへ行くたびに、ホテルのチェックインを済ませたら、まずはその店に飛び込んだ。白いブラウスに始まり、スリムなコート、ショート丈のジャケット、スリムジーンズ、スニーカー、シルバーアクセサリー、ジュエリーボックス・・・などなど、ディオール・オムにどっぷり浸かった時代であった。

シルバー地にシルバーでロゴが入った織りネーム。四点留めはラグジュアリーブランドならでは。

 確か2004年だったと思うが、中田英寿さん(以下ヒデさん)のCM撮影がロンドンであり、ヒデさんに「撮影後に、カンヌへ遊びに行かないか」と誘われて、2人でカンヌ映画祭へ行ったことがある。なぜかレッドカーペットを歩いて授賞式を見に行くことになったのだが、僕はその時、ディオール・オムのオリーブグリーンのセットアップしか持って行ってなかったので、それを着て行った。すると、あっさりと門前払いをくらった。ヒデさんはアルマーニさんの招待で来ていたので、アルマーニのタキシードを着ていた。タイが微妙で、注意はされていたが、彼は会場へ入れた。僕はスタイリストでありながら、「ドレスコード失格で退場」という大失態を犯してしまったのだが、入場していく人々を見ると、貸衣装のようなタキシードを着ている人だらけで、なんとも野暮ったい雰囲気だった。むしろ、冴えないドアマンに「Go home!」と言われてよかった。・・・と、自分に言い聞かせた。

 その翌日、ヒデさんとふたり、予定もなくて何をしようかと考えていたら、なんと仕事でカンヌに来ていたエディからヒデさんの携帯に連絡が入った。「カンヌのカスバ(東京・恵比寿にあるバー)のような店へ行かない?」というお誘いだった。ふたりとも暇なので、夕方6時に待ち合わせをして、えらい早い時間からその会員制バーに突入。入るなり、エディがシャンパンを抜いてくれて乾杯! カンヌに入ってからはずっと飲みっぱなしで、僕はずっと酔っ払い状態だった。その店にはオープンと同時に入ったが、雰囲気が独特で、ただならぬ空気が漂っていた。エディは続々と来る客人を紹介してくれた。最初はクリスティーナ・リッチとその彼氏。シャンパンの酔いにまかせて、飄々と握手を交わす。男性はダフトパンクのトーマ・バンガルテルだったが、いつものヘルメットは被っていないし、店内の音はやたらと騒がしいし、よくわからないままにハグを交わして挨拶していた。その後も「見たことあるな」というセレブがどんどんと入店して来て、僕もヒデさんも気持ちが昂ぶり、いつの間にか踊っていた。

 店の盛り上がりが最高潮の頃には、エディはボーイフレンドとともにどこかへ消えていた。シャンパンに浸ってダンス疲れした僕は、ソファでぐったりとしていた。すると、隣に座っていた女性にシャンパングラスで乾杯を求められた。美しいその女性に乾杯を返していると、ヒデさんに、「スケちゃん、帰るよ!」と言われて店を出た。ホテルまで歩いている途中に、ヒデさんが「スケちゃん、ケイト・ブランシェット、どうだった?」と訊いてきた。「えっ!ケイト?」。ヒデさんは何をいっているのだろうとポカンとしていると、「さっき、乾杯していたでしょ」。えーっ、あの美女はケイト・ブランシェットだったのかー!一気に酔いが醒めた。
 ヒデさんと行ったカンヌ映画祭は、かけがえのない思い出である。ドレスコードの厳しさも痛感したが、同時にカンヌが田舎街であることも知った。ドレスコードに求められるのは、センスではなくてルールなのだと身にしみて感じた。結局翌朝まで一睡もせず、早朝の飛行機でカンヌを後にした。

サイズ52のレザーコート。当時の僕のサイズは46か48だったけど、あいにく在庫がなく、購入できるのはこのサイズ52のみだった。サイズはピタピタで着る、というのがエディの提案だったが、試着してみると「ちょっとルーズなのもいいな」と思えて購入。
エディによるディオール・オムの中では僕が最後に購入したのがこのレザーブルゾン。背中には花火の刺繍、袖口はボタン留め。
(左) エディによるディオール・オムの後期のアイテム。とにかく脇腹が出るタンクトップである。今着ると相当ヤバいので、今回は脇を見せずに撮った。首の空き具合がいかにもエディらしい。
(右) 気に入ってヘビーローテで着ていたボーダーTシャツ。雑誌のブラジルロケを「情熱大陸」が追いかけてくれたときにも、これを着ていた。
(左) 20年以上前に購入した、ディオールのタキシードパンツの傑作。シルエットがとにかく美しい。僕のウエストはあれからかなり成長したのだが、それでもまだはけた。中に着ているのはボーダーTシャツ。ブルゾンに合わせました。
(右) レザーコートにチェッカータンク。このコートは20年目の今になってやっとしっくりしてきました。

■祐真朋樹(@stsukezane
1965年京都市生まれ。マガジンハウス『POPEYE』編集部でエディターとしてのキャリアをスタート。現在は雑誌のファッションページの企画・スタイリングの他、アーティストやミュージシャンの広告衣装のスタイリングを手がけている。コロナ以前は、35年以上、パリとミラノのメンズコレクションを取材していた。

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