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THINGS I LOVE vol.8

2025.07.17feature

 

 

 まだまだGUCCIとの話がありました。

 2004年にトム・フォード氏がGUCCIを退任する1年前頃、確か2002年の夏から秋にかけてだったと思うが、フリーダ・ジャンニーニ(以下、フリーダ)とアレッサンドロ・ミケーレ(以下、ミケーレ)が、一緒に東京へ来た。
 当時、2人はGUCCIのアクセサリー部門のデザインチームにいて、初めて挨拶した時、ミケーレは「僕はFENDIからGUCCIに来ました」と自己紹介してくれた。僕はトム・フォードから「チームのメンバーが東京に行くから案内して欲しい」と日本のPRを通じて依頼され、同行していた他2名と計4名を半日だけ案内した。

 当時、僕はCELUXというLOUIS VUITTONのプロジェクトに携わっており、ちょうどその店が表参道(LV表参道店の上階)にできたばかりだったので、まずはそこへお連れした。自分がセレクトした服や雑貨、そしてLVとコラボした品などを見てもらった後、表参道周辺にあるセレクトショップや古着店などにも案内した。が、2人はその日到着したばかりで、少し疲れているように見えた。午後イチにスタートした案内だったが、夕方5時を超した頃には、広尾にあったバー、羽澤ガーデンでカクテルタイムとなった。当時、僕は羽澤ガーデンのバーが好きで、毎日のように通っていた。つまり、その日も僕のルーティーン通り、羽澤ガーデンへ行ったということだ。
 2人は最初、「いきなりバーかよ」と驚いた感じだったが、店に入るとその設えや庭の雰囲気を気に入って、カクテルタイムを楽しんでくれた。羽澤ガーデンのバーラウンジは、今思い出しても庭が美しく、ドライフルーツなどのつまみも充実していて非常に居心地がよかった。まさに「市中の山居」を彷彿とさせる雰囲気があった。旅の疲れを癒やせるのでは、と僕なりに考えたチョイスだった。バーではフリーダがリーダーシップをとっていて、ミケーレはフリーダの言うとおりにしていた。他2名の記憶は曖昧だが、グループのボスはフリーダで、アシスタントがミケーレという構図だった。一瞬の出会いだったが、その後、2人がGUCCIの未来を背負って立つことになるなど、まったく予想だにしていなかった。

 その日は2人ともGUCCIは着ていなかった。フリーダはGUCCIのバッグを持っていたが、ミケーレは全身古着で、ヒッピー風ショルダーバッグを持っていた。もしかして、ベルトだけはヴィンテージのGUCCIだったかもしれない。他の2名のうちの1人だけが、全身トム・フォードのGUCCI で決めていた。今考えれば、1996年にトム・フォードとそのチームにパークハイアット東京で会ったときのノリとは、大きく変わっていたのである。

ロゴ下にはTomoki Sukezaneの織りネーム付き。
袖口にイニシャルを入れられるのも、Made-to-measureの醍醐味。

 僕はその後、フリーダがディレクターだった2007年頃に、雑誌『Casa BRUTUS』の特集で彼女を京都案内した。青蓮院へお連れしたら、ふすま絵を大層気に入ってくれたのが懐かしい。夜は祇園の「一力亭」へ。芸妓さんたちの小唄や踊りを見ていたら、フリーダが突然、「トモキ、あの着物を着てみたい!」と言い出した。一瞬焦ったが、とりあえずその場を仕切っていた年配の女性におそるおそる「すみません、お母さん、彼女が、あの芸妓さんの着物を着たいと言うてるんですけど・・・」とお伺いを立てた。するとお母さんは間髪入れず「かまいまへんで。ほな、あんたら、それ脱いで、彼女に貸したげぇ」となった。フリーダは喜んでくれたが、僕は着替え場所へと引き込まれ、着付けの手伝いをすることになった。着物の着せ方などわからないので、お母さんの言うままに帯を押さえたりして、ニヤニヤしている半裸のフリーダの前で真面目に着付けを手伝った。
 当時のフリーダは当然全身GUCCIで決めていた。僕はそのシーズンのGUCCIの服は持っていなかった。当時のお気に入りだったbedwin & the heartbreakersのライトグレーのスーツを着ていた。そしてゴージャスな京都案内の最後に、フリーダに西陣織の組紐をプレゼントした。正直、この時に初めて組紐の美しさを知った。

 その後、2011年には『グッチ創設90周年:京都・金閣寺方丈アーカイブ展』のお手伝いをすることに。京都で90周年の祝いをしたいという相談を受けたときに、僕は即座に金閣寺(鹿苑寺)を提案した。金閣寺の本殿とGUCCIのイメージが実にしっくりきたのだ。その時はまさかできるとは思っていなかったが、方丈の間から望む本殿を背景に、グッチのアーカイブであるバンブーバッグを数点展示するというのは大変興味深いものだった。総合演出をして頂いた画家の千住博さんのお手伝いとして、僕はふすま絵を見ながらバンブーバッグを並べた。それは貴重な経験となった。
 持ち手のバンブーと水墨画のふすま絵との相性は素晴らしかった。暑い夏場の展示作業で、エアコンのない空間だったが、風通しの良い建築設計になっているので、時折入る風の心地よさと言ったらなかった。宮大工が工夫を凝らして生み出した、粋な仕掛けである。それを実感できたのも贅沢だった。
 打ち上げパーティーは、岡崎にあった「つる家」で行われた。吉田五十八の近代数寄屋建築での大宴会は、GUCCI 90周年にふさわしい場だったと思う。宴たけなわのタイミングで、庭に平家蛍が舞った。その美しい光景が目に焼き付いた。フリーダは欠席だったが、CEOのパトリツィオ・ディ・マルコは、たいそう喜んでくれた。フリーダにはインタビューも幾度となくしたが、残念ながら、トム・フォード時代のGUCCIの時のように服をたくさん買うことはなかった。

 そして2015 年の2月。コレクションで発表されたアレッサンドロ・ミケーレのコレクションを見て、ビッグボウブラウスが心に刺さった。それから3年ほど、ミケーレ・グッチにはまった。ミケーレの素晴らしさは、トム・フォードが作り上げたゴージャスで煌びやかなイメージに、ポップな遊び心と、枯れたような静寂な美、それにホラーのような美を加えた独自の世界観にある。それらがバランスよく融合して、見事に新しいグッチワールドを作り上げた。これには響いた。長い間、ランウェイブランド全体に飽きていた時期だったので、なおのこと強く刺さった。2015年の夏は、ミラノコレクションへ行くとまずGUCCIの店へ買い物に行った。そんな気持ちになったのは、10年以上ぶりだったと思う。
 ミケーレのリブランドが爆発的な成功を収めたのは、彼の15年近くに及ぶGUCCIでのキャリアがあったことが大きい。リブランドと言えば、ディレクターを他ブランドから引き抜いたり、異業種の人をキャスティングしたりと、ややイベント重視の傾向にあるが、アレッサンドロ・ミケーレのグッチ再生の成功は、彼が誰よりもGUCCIを理解し、愛していたからこそ成し得た偉業である。もちろん、ミケーレにチャンスを与えたCEOのマルコ・ビッザーリの功績が、何よりも大きいことは間違いない。

美しいクラシックな花柄のシルクのボウブラウス。ランウェイで見たのは赤無地でした。ミケーレの才能に衝撃を受けて、Made-to measureしました。
踵の後ろに入っている蜂の刺繍がミケーレのトレードマーク。男の靴としてはかなりデコラティブだけど、気に入って今でもよく履いている。
こんなメンズシューズ、見たことない。ラブリーだけど基本、マニッシュ。もちろん踵には蜂の刺繍入り。
華やかな場ではめっぽう評判のよかったジャケット2着。買ったばかりの頃は、日替わりで着ていた。
なんとGUCCIとNYヤンキースがコラボレーションしたバルマカーンコート。何より異業種の大胆なコラボに驚いた!
左は、日本で言うところのイージーオーダー、Made-to-measureで作ったスーツ。右は、プレタポルテで購入したダブルブレストのレッドスーツ。最近はかなりきつくなってきたが、今でも大好きなスーツ。

■祐真朋樹(@stsukezane
1965年京都市生まれ。マガジンハウス『POPEYE』編集部でエディターとしてのキャリアをスタート。現在は雑誌のファッションページの企画・スタイリングの他、アーティストやミュージシャンの広告衣装のスタイリングを手がけている。コロナ以前は、35年以上、パリとミラノのメンズコレクションを取材していた。

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