THINGS I LOVE vol.10
2025.08.14feature


前回も触れたが、1990年代に入る頃、僕のクローゼットはほぼイタリアブランドで埋め尽くされていた。ところが、ミラノやパリのコレクションに頻繁に通っているうちに、どんどんミラノよりパリの方に魅力を感じるようになっていった。
マルセル・ラサンス、オールドイングランド、エルメス本店、シャルベ、レクレルール、J.M.ウエストン・・・パリに行ったら必ず通っていた店は、どこもパリならではのエスプリを纏っていた。街のそこかしこにある歴史的建造物や、パリの観光名所であるエッフェル塔や凱旋門の眺めには圧倒されっぱなし。何度見てもオシャレな気分に浸ることができた。はい、当時の僕は、100%「お上りさん」状態でした。
そんな気持ちのまま、グッチやドルチェ&ガッバーナなどの服を着てパリを歩いていたわけだが、そのうち、どうにもそれが居心地悪いと感じるようになった。な〜んか、パリにはマッチしないのである。
当時は「カフェ ド フロール」やオスマン通りの「プランタン」が好きで、左岸・サンジェルマン周辺のホテルに泊まることが多かった。が、しかし、1993年、10回目の滞在時に、地下鉄で財布を盗まれて目が覚めた。オシャレなパリは泥棒のパリでもあった。以降、「お上りさん」は卒業!・・・したつもり。うかれてばかりいないで、常に万全を期して街を歩いている。最近は、地下鉄で「スリに気をつけてください」と日本語のアナウンスが流れる。一体どれだけ多くの日本人が被害に遭ったのだろうか。これって親切極まりないアナウンスだけど、ある意味、浮かれた日本人への注意喚起であり、ちょっと恥ずかしい。
90年代は、僕の年齢から言うと25歳から35歳の時代である。毎シーズン、コレクションの影響をモロに受けて、その時々、最新の洋服を買っては着る、の繰り返し。髪型もそれに合わせて変えるという、チャレンジングな時代だった。と同時に、プライベートの変化も激しかった。86年から闘病中だった父が95年に意識不明の重体となり、入院。99年に亡くなった。98年には息子が誕生。90年代後半は海外渡航が年に20回以上となり、常に時差ぼけ状態の日々だった。
そんな中、前回紹介したチャイナジャケットは、どこへ着て行っても個性が出せて、それでいて失礼にもならず、大変重宝したものである。しかし95年に父が倒れた際に病院に駆けつけた僕の出で立ちはというと・・・金髪にシルバーのパンツ、原色ブルーのノースリーブシャツ。我に返るとそのあまりの浮きっぷりに猛省。生死をさまよう父の傍らにいる僕は、とびきり場違いなグラムロック風・・・。空気読めてないにもほどがある。重体の父の顔を眺めながら、「でもこれが自分の今なんだよな」としみじみ思った。そんなこんなの失礼&無礼な失敗を経て、今がある。・・・とも言える。
1996年のトム・フォード氏とのパークハイアットでの夜会をきっかけに、僕のファッションデザイナーたちへの関心は上昇の一途を辿った。98年頃からは、テレビの『ファッション通信』でコレクションレポートの仕事もスタートした。
そして98年の秋、パリでスタイリストとして活躍していた水谷美香さんから連絡がきた。水谷さんはスタイリストの大先輩であり、神の如く尊敬していた存在。1992年に『マサキマツシマ』のビジュアルブックをパリで撮影した際に協力して頂いた以降の間柄である。当時のパートナー、七種諭さんに撮影をお願いしたのだが、この仕事は僕の大きなターニングポイントとなった。その水谷さんからの連絡は「エディくんに東京で会って欲しい」というもの。あのエディ・スリマンに会って欲しいと言うのである。
当時のエディは、イヴ・サンローラン リヴ ゴーシュのメンズにおけるクリエイティブ・ディレクター。ウィメンズはアルベール・エルバスが担当していた。そのライセンスブランドとして日本限定で生まれたのが『サンローラン・ジーンズ』であり、その監修もエディが務めていた。
( VOL.11に続く )


■祐真朋樹(@stsukezane)
1965年京都市生まれ。マガジンハウス『POPEYE』編集部でエディターとしてのキャリアをスタート。現在は雑誌のファッションページの企画・スタイリングの他、アーティストやミュージシャンの広告衣装のスタイリングを手がけている。コロナ以前は、35年以上、パリとミラノのメンズコレクションを取材していた