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THINGS I LOVE vol.11

2025.08.28feature

 

 

 当時、明治通りを挟んでラフォーレ原宿の向かい側にあったカフェ・デプレで、夜の9時頃に待ち合わせをした。エディとは初対面だったが、僕はさほど緊張することもなく、単に「どんな人なんだろう」と興味を持つ程度であった。上海灘のチャイナジャケットを着て、ドルチェ&ガッバーナのヒョウ柄のハットをかぶっていた僕。ファッションプロデューサーの若槻善雄さんと、当時PRをしていた吉田瑞代さんも同席していた。
 そのときのエディはと言えば、ボルドーカラーのセットアップに身を包み、なぜか深刻な表情をしていた。彼は「数ヶ月後に、原宿でサンローラン・ジーンズのファッションショーをしたいんだ」と話し始め、意見を求められた。僕が伝えたのは、「モデルはパリから連れてきた方がいい」ということと、「ジーンズへの愛情と知識に関しては、東京は世界最先端のレベルだよ」の2点。そしてその1週間後、僕はエディとパリで偶然の再会を果たした。場所はサルワグラム。シルヴィ・グランバック主催のパーティーで、何やらデザイナーに賞を与えるイベントだった。ジャン=ポール・ゴルティエやティエリー・ミュグレーなどの大御所が受賞者という、ちょっと前時代的でやや退屈な会だったのだが、新人賞をジェレミー・スコットが受賞していたのは面白かった。僕はデザイナーの立野浩二さんや現WAG,Inc.会長の伊藤美恵さんと出席していたのだが、パーティーの半ば頃、後ろから肩を叩く人がいた。振り返れば、なんとエディが笑って立っていた。東京では気難しそうにしていた彼だが、その時は和やかな表情をしていた。広い会場内でわざわざ僕を見つけて、声を掛けにきてくれたのである。なんだか彼が突然、凄くいい人に思えてきたのであった。

 結局、サンローラン・ジーンズのショーにはヨーロッパの若者が大勢モデルとして来日し、本番のランウェイにはなんと木村拓哉さんも登場。この空前のイベントは、今はない神宮前スタジオで開催された。ショーの数日前から、明治通りにはジャンルー・シーフ撮影のイヴ・サンローラン氏のポートレートがデカデカとラッピングされたバスが走った。サンローランが何たるかわからない世代に、この宣伝は刺激的だったと思う。  
 エディの東京イベントは大成功だった。このコレクションの盛り上がりは相当なもので、業界におけるエディの存在を強く印象づけるものになったことは間違いない。以降、エディとの親交が深まった。パリコレへ行くと、それまではチェックしていなかったイヴ・サンローラン リヴゴーシュのショーもスケジュールに入れて観に行った。が、この次のシーズンでエディはサンローランを去ることになる。確か1999年のことだったと思う。最後のショーのフィナーレに現れた、ゴールドのファイブポケットジーンズに白シャツのモデルたちの姿は、今でも脳裏に焼き付いている。

 エディがイブ・サンローランを離れるきっかけとなったのは、グッチのリブランディングを成功に導いたトム・フォード氏のイブ・サンローラン社の買収劇だった。当時、パリのファッション業界では、この買収には超悲観的な空気が漂っていた。エディの退任とともにアルベール・エルバスもウイメンズのディレクターを退任。「イヴ・サンローランの新時代幕開け」「リブランディング開始」というような前向きな雰囲気はどこにもなく、トム・フォードは、圧倒的に劣勢に立っていたのである。そんな中、エディはLVMHのクリスチャン・ディオールのメンズブランド、『ディオール・オム』のクリエイティブディレクターに就任。アメリカ人のトム・フォードに対して冷ややかな態度だったパリの業界のムードを追い風に、エディは一躍新たなパリのヒーローに躍り出た。ヨーロッパにもアメリカにも何ら縁のない僕ですらそんな空気を察したのだから、当人たちのプレッシャーは大変なものだったと思う。

 ディオール・オムのデビューコレクション直前、当時仕事をしていた雑誌『MRハイファッション』でエディにインタビューをした。「いったいどんな服を作っているの?」なんて、発表前に答えにくい質問を無神経にもしてみたら、エディはアベニューモンテーニュのクリスチャン・ディオールの店に僕を連れて行き、そこのテーラーに「この人のスーツを作って」と言った。「えっ!僕はそんなつもりで聞いたわけではないのに」と思いながらも、これは凄いことだと夢心地になった。その後、一瞬にしてエディはその場から去り、風のようにいなくなっていた。
 その翌々日、エディのデビューコレクションが行われた。会場には、イヴ・サンローラン、ミック・ジャガー、カトリーヌ・ドヌーヴ、カール・ラガーフェルド、デヴィッド・ボウイ、ジョン・ガリアーノ・・・と錚々たる面々が顔を並べていた。美しいモデルが纏ったスリムな白いブラウスの美しさは圧倒的で、前回のサンローラン・リヴゴーシュの続きを彷彿とさせながらも、ディオール・オムとしてのスタイルを決定づけたのであった。

 東京へ戻って2ヶ月ほど経ったある日、クリスチャン・ディオールの日本のPRから電話があった。「祐真さん宛の荷物が届いています」。普段、ウィメンズの仕事をほとんどしていないので、PR担当者とも関わりがなかった。電話の相手は「どうしてあなたにエディから荷物が届くの??」という感じ。僕も最初は何のことやらと思って聞いていたのだが、話しているうちに「あっ! あれだ。アベニューモンテーニュで採寸したスーツに違いない!」と気づき、「今すぐ取りに伺います」と答えた。・・・のだが、ショールームへ向かう途中、右折信号で正面から信号無視をして突っ込んできた若者5人乗り(本来は4人乗り)の車に衝突されて、その場から救急車で病院行き。ピックアップはお預けとなった。救急車で運ばれながら、携帯電話でディオールのPRや『MRハイファッション』の編集部に連絡を入れた。サイレンが鳴り響く中、「今から病院に救急搬送されるので行けなくなりました」と報告する姿は、我ながら間抜けで忘れられない。

 数日後、ディオールのショールームで無事スーツをピックアップ。パリコレで見たデビューコレクションを思い出し、「まさにあの感じじゃん」と小躍りした。実際に着てみると、張りとこしのある生地感が作り出すミニマルで構築的なシルエットが素晴らしい。鏡で確認しながら「ヤッホー!」と声が出た。そして、既にパリで買ってあった白いブラウスを合わせてると「これか! これがエディ・スリマンのディオール・オムなんだな!」と感じ入った。なるほど、これこそが正しくパリの街角に似合う服なのだと確信したのであった。

( VOL.12に続く )

サイドゴアブーツはエッジの効いた角度でゴアが入っている。つま先が細いのも特徴。

(left) 左はエディの象徴的なナロータイ。僕は何本も何本も買いました。右はちょっと太めだけど、ネクタイのカテゴリーとしてはそれでもナロー。スカルのワンポイントが入っている。

(right) 胸にプリーツが入った白シャツ。スーツに合わせても、1枚で着ても様になる。この頃は、アイコンであるビー(蜂)の刺繍はまだ入っていなかった。

(left) エディのジャケットのインナーにTシャツを着るときにはいつも巻いていたストール。薄くて使いやすい。

(right) エディは途中からTシャツやデニムに力を入れだしたが、その流れで発表された大人気のスニーカー。ディオール・オムのカジュアルラインのアイコンとなった。
エディがアベニューモンターニュの店に僕を連れて行って作ってくれたブラックスーツ。左は白シャツとナロータイ、それにレザーブーツを合わせたもの。右は白Tシャツにマフラーを巻いて、スニーカーを合わせたもの。

■祐真朋樹(@stsukezane
1965年京都市生まれ。マガジンハウス『POPEYE』編集部でエディターとしてのキャリアをスタート。現在は雑誌のファッションページの企画・スタイリングの他、アーティストやミュージシャンの広告衣装のスタイリングを手がけている。コロナ以前は、35年以上、パリとミラノのメンズコレクションを取材していた。

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